最近、私の頭の中で繰り返し繰り返し流れているメッセージがあります。
石川県野々市市の大谷派の常讃寺坊守の藤場美津路(ふじばみつじ)さんの詩です。
「仏様のことば(丁度よい)」
お前はお前で丁度よい
顔も体も名前も姓も
お前にそれは丁度よい
貧も富も親も子も
息子の嫁もその孫も
それはお前に丁度よい
幸も不幸もよろこびも
悲しみさえも丁度よい
歩いたお前の人生は
悪くもなければ良くもない
お前にとって丁度よい
地獄へ行こうと極楽へ行こうと
行ったところが丁度よい
うぬぼれる要もなく卑下する要もない
上もなければ下もない
死ぬ月日さえも丁度よい
仏様と二人連の人生
丁度よくないはずがない
丁度よいのだと聞こえた時
憶念の信が生まれます
南無阿弥陀仏
藤場さんは、「仏様の声が頭の中に聞こえてきたので、そのまま書き取りました。」この詩は「自己否定の苦悩の中に聞こえた仏様の慈愛の言葉です。安易な現状肯定ではありません」とおっしゃっておられます。
親が悪い、連れ合いが悪い、子が悪い、会社が悪い、社会が悪い・・・
私の周りは悪者ばかりですが、それは、正しいのは自分で、間違っているのは他人だと思っているから、そうなってしまっているのです。
しかし本当は、今の自分の状況はすべて自分が今まで行ってきた結果。
だから、どんな状況であれ、自分が引き受けなければならないし、それが「お前に丁度よい」のだよ、との仏さまのおさとしです。
そんな私ですが、「独りきりで生きていけ」ではなくて、「わたしと二人連れだよ」とおっしゃってくださる仏さまがおられることで救われます。
12月6日(土) 13時~15時半頃 音楽法要 講師:平田聖子さん
12月7日(日) 10時~12時と13時~15時半頃の2座 (お斎(昼食)あり)
お勤めの後に法話があります。
社会情勢の変化により、予定が変更となる場合があります。
幸福という苦しみ
家族(特に母親)に対して複雑な思いがあり、悩んでいたある女性の話を聞いていて思ったことですが、私たちは無意識のうちに“幸せのかたち”というものを植え付けられています。
例えば、大きな家に住むとか、立身出世するとか、結婚するとか、家族が仲がいいとか、長生きするとか…。これが幸せですよ、と習わなくても、親とか周りの人間がそういう状況にある人を「すごいね」「いいね」「立派だね」などと話しているのを聞いているだけで、その状況を手に入れることが良いことで、“幸せ”であると刷り込まれてしまいます。
そして、それが手に入らなかったり、他人が持っているのを見ると、自分が幸せではないように感じ、苦しむことになります。あるいは、そのようにできない自分を責めて苦しむこともあります。
人から植え付けられた“こうであるべき”とか“こうであれば幸せ”という縛りから解放されれば、楽になります。親や子を愛しなければならないわけではありません。
お釈迦さまはおっしゃっています。
「愛する人と会うな。愛しない人とも会うな。愛する人に会わないのは苦しい。また愛しない人に会うのも苦しい。(210偈)
それ故に愛する人をつくるな。愛する人を失うのはわざわいである。愛する人も憎む人もいない人々には、わずらいの絆が存在しない。(211偈)
愛するものから憂いが生じ、愛するものから恐れが生ずる、愛するものを離れたならば、憂いは存在しない。どうして恐れることがあろうか?(212偈)」
『ブッダの真理のことば 感興のことば』 中村元訳 ワイド版岩波文庫
7日(日)日曜礼拝 お勤め 瞑想 法話 各自感話 8時~
10日(水)預流(よる)の集い 13時~ 話し合い法座
14日(日)日曜礼拝 お勤め 瞑想 法話 各自感話 8時~
15日(月)寺カフェ 13時~ 縮緬で作る椿の花
18日(木)仏教入門(一緒に学んで楽しい仏教)13時~ 初めから学ぶ正信偈 第11回
21日(日)日曜礼拝 お勤め 瞑想 法話 各自感話 8時~
24日(水) 歎異抄 13時~ 親鸞聖人に導かれて生きる
28日(日)日曜礼拝 お勤め 瞑想 法話 各自感話 8時~
31日(水)除夜会 23時30分~ 除夜の鐘
日曜礼拝・預流の集い・歎異抄のライブ配信があります。限定公開なのでご希望の方はご連絡ください。
先日、50代の男性が亡くなりました。数年前から大腸がんをわずらっておられて、手術をし、その後しばらくは良かったのですが、1年ほど前に再発しました。
抗がん剤治療の副作用もあり、食事もとれなくなっていたのですが、亡くなる直前までそのことをご両親や身近な人に伝えておらず、奥さんと子供たち以外は会うことが出来ませんでした。
「どうして教えてくれなかったのか」と口に出して責める人はいませんでした。ただ、最後にもう一度会えなかったことを心から悲しんでいました。
2か月前に家族全員で集まった時には、本当は体調が悪く、とても参加できる状況ではなかったのに、元気に振る舞っておられました。
この方がどれほどの苦悩を抱え、どういう思いでおられたのか、他の誰にもわかりません。
私が想像できるのは、あくまで自分の人生観にもとづく考えであり、私が考え出したに過ぎない、その人の心です。本当に一人の人間を理解しようと思えば、その人の人生を自分もまた生きてみなければ分かりません。
私たちは、自分の感情は自分で抱えたまま、その方の人生、思いを尊重して、そのまま受け止めていくしかできないのでしょう。
全力で生きてこられた人生、おつかれさまでした。あなたに出遇えたことに感謝しております。これからは仏さまとなって、私たちを見守り、導いてください。
南無阿弥陀仏
2日(日)日曜礼拝 お勤め 瞑想 法話 各自感話 8時~
9日(日)日曜礼拝 お勤め 瞑想 法話 各自感話 8時~
10日(月)寺カフェ 13時~ 大人の塗り絵
12日(水)預流(よる)の集い 13時~ 話し合い法座
16日(日)日曜礼拝 お勤め 瞑想 法話 各自感話 8時~
20日(木)仏教入門(一緒に学んで楽しい仏教)13時~ 初めから学ぶ正信偈 第10回
23日(日)日曜礼拝 お勤め 瞑想 法話 各自感話 8時~
26日(水) 歎異抄 13時~ 親鸞聖人に導かれて生きる
30日(日)日曜礼拝 お勤め 瞑想 法話 各自感話 8時~
日曜礼拝・預流の集い・歎異抄のオンライン配信あります。限定公開なのでご希望の方はご連絡ください。
「死すべき身なのに、なぜ浄土往生を願わないのか」・・・お釈迦さま
どうして人々は、各自が健やかな間に、浄土に往生することを願わないのであろうか。
そうすれば、とこしえにつきないいのちが恵まれるであろうに。
なぜ、道を求めないのだろうか。何を期待して生きているのだろうか。
いったい、どういう楽しみを欲しているのであろうか。
(浄土真宗 聖典 勤行集P170―4 仏説無量寿経)
「宗教の役割、寺院、僧侶の役割は何だろうか」
信心いただいても、老いは来ます、病気にもなります、死も来ます。
でも信心頂ければ、苦しみが減ります、やすらぎます、それが信心の醍醐味(本当の面白さ、深い味わい)です
生まれたら老いて、病んで、必ず死は来る。無常の法則です。
どうして本当の安らぎ、真実、生きがい、よりどころを求めないのだろうか。
現在伝統宗教は形骸化しています。
形も儀礼も大事です。尊いです。
もう一歩内容、教えを味わい、実践してみませんか。
「自分の生きがい、拠り所を持っていますか」拠り所を何に持つかを共に学んでみませんか。
目的 生きがい、よりどころを持ち、浄土への道を歩む。
儀礼、理論、実践すべてそろっています。
内容 作法(儀礼、読経)
教義(教え、理論)
実践(拠り所を持つ)
お勤め 瞑想 法話 参加者感話
毎週日曜日朝8時~9時頃
仏教を聞いていくと、見る風景がガラッと全く違うものに変わってくる。
今まで当たり前と思っていた日常が、有り難いものに変わっていく。
一つの事実に対していろんな見方、見え方がある。見えなかったものが見えてくる。
読み方と内容を味わう。教義を学ぶ。仏教、真宗の教義、理論を学ぶ。
初めての方にもわかるようにていねいに、お伝えします。
「善人なほもつて往生をとぐ。いわんや悪人をや。」
この言葉は教科書で読んだ方も多いと思います。
常識的な道徳観では理解できない逆説をどう考えるか。
そして優しく、厳しい言葉。
人生に行き詰まった時、人生の指南書のように読まれた仏教書。
仏教の枠を超えて、人々の心をとらえ続ける親鸞聖人の人間的魅力はどこにあるのだろう。
親鸞聖人の死後弟子の唯円が元々の教えとは異なる説が広まっている現状を歎き、生前直接聞かされた言葉を書き記した書。
預流(よる)とは、流れに預かる、つまり一歩足を踏み込むということです。
お寺に行く、法座に参加するというだけで、仏教の流れの中に入っている。
”仏さまのいのち”が還元してきている。
そのなかでの話し合い法座です。
例)コロナ時代における仏教徒。
最初に仏法をお話しして、各自、テーマに沿って発言。
仏教の実践になります。醍醐味=深い味わい、おもしろみがあります。
法友とは阿弥陀如来、仏法を中心に生活をしている友。
コロナ禍の中で人との距離を取る時代、心のつながりを大切にする集い。
例)色々な飾り物、実用品など物を作る、絵手紙、旅行、体操、ゲームなど。


岡崎 西光寺
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