悉能摧破有无見(しつのうざいはうむけん)
「正信偈」には、龍樹菩薩が「有無の見をすべて打ち破り…」と示されています。
命つきて肉体が滅びたあとも、魂や霊魂のようなものがこの世に実在し続ける、つまり「有」り続けると考える「有見」も、命尽きて肉体が滅べばそこで終わり、焼かれて灰になれば、生きていた頃の思いや感情もすべて消え「無」に帰すると考える「無見」もどちらも誤ったものの見方であると言われるのです。
そうであるならば、お盆に帰ってくるというのはどういうことなのでしょうか?
8月13日(水) 10時~11時半頃
8月14日(木) 10時~11時半頃
8月13日(水)(夜の部) 18時15分~19時半頃
社会情勢の変化により、予定が変更となる場合があります。
数か月前、柿の剪定をしていて脚立から転落しました。「天板に乗らない」とわざわざ注意されているし、知り合いの庭師さんとか大工さんとかが落ちて骨折したという話を聞いていても、なぜか「自分は大丈夫」と思って、無茶な体勢で天板に乗って枝を切っていたら、見事にバランスを崩し、横倒しになって落ちました。
「足元のバランスを失うと、空中では何も出来ないものなんだなあ」と感心している場合ではなく、一歩間違えば大怪我をしていたところですが、幸い、かすり傷ひとつなく、ちょっと腰を打ったところが痛かったくらいで済みました。阿弥陀さまがお守りくださったのだと思っています。
「いつもは大丈夫だから・・・」、「慣れているから・・・」、「これくらいなら・・・」という油断は禁物ということを、身をもって知らされました。
他人事ではなく、自分事として、皆さまもどうぞお気を付けください。
1日(日)日曜礼拝 お勤め 瞑想 法話 各自感話 8時~
8日(日)日曜礼拝 お勤め 瞑想 法話 各自感話 8時~
11日(水)預流(よる)の集い 13時~ 話し合い法座
15日(日)日曜礼拝 お勤め 瞑想 法話 各自感話 8時~
16日(月)寺カフェ 13時~ 脳トレ
19日(木)仏教入門(一緒に学んで楽しい仏教)13時~ 初めから学ぶ正信偈 第5回
22日(日)日曜礼拝 お勤め 瞑想 法話 各自感話 8時~
25日(水) 歎異抄 13時~ 親鸞聖人に導かれて生きる
29日(日)日曜礼拝 お勤め 瞑想 法話 各自感話 8時~
日曜礼拝・預流の集い・歎異抄のライブ配信があります。限定公開なのでご希望の方はご連絡ください
先日、非常に難しい葬儀のご縁をいただきました。故人様はキリスト教(カトリック)、喪主様は浄土真宗、ご遺族もキリスト教と仏教が半々といった感じでしょうか。仏教の宗派の違いはよくあることなので、ほとんど気にならなくなっていたのですが、キリスト教となるとやはりその違いを意識せざるを得ません。お通夜や葬儀などすべてを本願寺派の作法でお勤めさせていただきましたが、「これでいいのだろうか」と、納得しきれないモヤモヤが残っていました。
ただ、葬儀の始まる前に、前日のお通夜の後、神父様が来られて皆さんにお話ししてくださったことを聞き、また、火葬の後もお話をいただけることを聞き、「これでよかったのだ」と思えました。
もちろん、教義的にどうなのだ?とか、信仰としておかしいのではないか?という疑問はありますが、身近な人の突然の死を前にして、そんな理性的な話だけで片付けられないのが私たちの心だと思います。
そして、葬儀は「亡くなった人の為」がすべてではなく、その方のことを想う「私の為」にも営まれるものです。その場に集った一人ひとりが、故人様と向き合い、死を悼みながら、いのちを訪(とぶら)い、仏さまであれ神さまであれ、大切なものに出遇わさせていただけるご縁となるのであれば、あまり形にこだわる必要はないのだということを感じました。
6日(日)日曜礼拝 お勤め 瞑想 法話 各自感話 8時~
7日(月)寺カフェ 13時~ ペン立て作り
9日(水)預流(よる)の集い 13時~ 話し合い法座
13日(日)日曜礼拝 お勤め 瞑想 法話 各自感話 8時~
17日(木)仏教入門(一緒に学んで楽しい仏教)13時~ 初めから学ぶ正信偈 第6回
20日(日)日曜礼拝 お勤め 瞑想 法話 各自感話 8時~
23日(水) 歎異抄 13時~ 親鸞聖人に導かれて生きる
27日(日)日曜礼拝 お勤め 瞑想 法話 各自感話 8時~
日曜礼拝・預流の集い・歎異抄のオンライン配信あります。限定公開なのでご希望の方はご連絡ください。
「死すべき身なのに、なぜ浄土往生を願わないのか」・・・お釈迦さま
どうして人々は、各自が健やかな間に、浄土に往生することを願わないのであろうか。
そうすれば、とこしえにつきないいのちが恵まれるであろうに。
なぜ、道を求めないのだろうか。何を期待して生きているのだろうか。
いったい、どういう楽しみを欲しているのであろうか。
(浄土真宗 聖典 勤行集P170―4 仏説無量寿経)
「宗教の役割、寺院、僧侶の役割は何だろうか」
信心いただいても、老いは来ます、病気にもなります、死も来ます。
でも信心頂ければ、苦しみが減ります、やすらぎます、それが信心の醍醐味(本当の面白さ、深い味わい)です
生まれたら老いて、病んで、必ず死は来る。無常の法則です。
どうして本当の安らぎ、真実、生きがい、よりどころを求めないのだろうか。
現在伝統宗教は形骸化しています。
形も儀礼も大事です。尊いです。
もう一歩内容、教えを味わい、実践してみませんか。
「自分の生きがい、拠り所を持っていますか」拠り所を何に持つかを共に学んでみませんか。
目的 生きがい、よりどころを持ち、浄土への道を歩む。
儀礼、理論、実践すべてそろっています。
内容 作法(儀礼、読経)
教義(教え、理論)
実践(拠り所を持つ)
お勤め 瞑想 法話 参加者感話
毎週日曜日朝8時~9時頃
仏教を聞いていくと、見る風景がガラッと全く違うものに変わってくる。
今まで当たり前と思っていた日常が、有り難いものに変わっていく。
一つの事実に対していろんな見方、見え方がある。見えなかったものが見えてくる。
読み方と内容を味わう。教義を学ぶ。仏教、真宗の教義、理論を学ぶ。
初めての方にもわかるようにていねいに、お伝えします。
「善人なほもつて往生をとぐ。いわんや悪人をや。」
この言葉は教科書で読んだ方も多いと思います。
常識的な道徳観では理解できない逆説をどう考えるか。
そして優しく、厳しい言葉。
人生に行き詰まった時、人生の指南書のように読まれた仏教書。
仏教の枠を超えて、人々の心をとらえ続ける親鸞聖人の人間的魅力はどこにあるのだろう。
親鸞聖人の死後弟子の唯円が元々の教えとは異なる説が広まっている現状を歎き、生前直接聞かされた言葉を書き記した書。
預流(よる)とは、流れに預かる、つまり一歩足を踏み込むということです。
お寺に行く、法座に参加するというだけで、仏教の流れの中に入っている。
”仏さまのいのち”が還元してきている。
そのなかでの話し合い法座です。
例)コロナ時代における仏教徒。
最初に仏法をお話しして、各自、テーマに沿って発言。
仏教の実践になります。醍醐味=深い味わい、おもしろみがあります。
法友とは阿弥陀如来、仏法を中心に生活をしている友。
コロナ禍の中で人との距離を取る時代、心のつながりを大切にする集い。
例)色々な飾り物、実用品など物を作る、絵手紙、旅行、体操、ゲームなど。


岡崎 西光寺
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