「いきいきと生きる」

お聖教の言葉は私にとっては宝です。その真実の言葉がお浄土から響いてきます。

摂取心光常照護 (正信偈)

「摂取」=おさめ取る。「心光」=阿弥陀さまの心の想い。「常照護」=いつも、どこでも私を護っている。

「いつも一緒にいるよ、大丈夫だよ、一人ぽっちではないよ、いつも一緒にいるよ」という阿弥陀さまの心の想いが、私の心に届いています。

幼き頃、私が病気をした時など、母親がいつも「私がいるから大丈夫、大丈夫」と言って呼びかけてくれました。お浄土へ還られ仏さまになられた、その母親の想いが今も、しみじみと届いています。

どんな悲しい事に出会っても、悲しみは消えないけれども軽くなります。病気になってもその病気の中で、「病気と向き合う力、生きていく力」が仏さまから与えられます。こういう事に気づく事が大切と思います。「ああそうなんだ」と、感じる心、感動が大切です。

経典の言葉は真実です。世間の言葉とは違い、真実の言葉は私たちの心に響きます。拠り所になります。

拠り所を持つことによって、人生迷わず「いきいきと生きる」ことができます。

今日は、「心光」、この言葉に出会えた、心の宝がまた一つ増えたと、意識的に感動して下さい。敏感に感じる心が、他の人の心を思い、阿弥陀さまのお心を感じるのではないでしょうか。

「あなたを決して見捨てないよ」と同じ意味です。人は、絶望の淵に突き落とされても、1%でも理解する人がいると救われます。そんな時、仏さまの声が南無阿弥陀仏の声となって聞こえてきます。

もう大丈夫です。

2018.12月

「我、今、帰するところ無く、孤独にして同伴なし」往生要集 源信僧都 

「帰る場所も待つ人もなく、ともに歩む者もいない」…これを地獄という。

核家族、少子高齢化社会になり、独り暮らしの方が多くなりました。また、家族で一つ屋根の下に暮らしていても、家庭と呼べる場がなければ、人間は孤独を感じるものです。家庭は安心と心の温もりのある居場所です。「家族はいても家庭がない」、現代の病巣とも言えますよね。

1人でご飯を食べて、1人で塾へ行く、帰っても誰もいない、子供たち。

しかし、私たちは「逃げださずに、向き合って、生きいきとして、生きていく」をテーマに仏道を歩んでいます。

帰る場所はお浄土です。待つ人はいます。先にお浄土に帰られた懐かしい方々です。同伴者は同じ道を歩む念仏者です。そして「いつも一緒にいるよ、大丈夫」「摂取心光常照護」と阿弥陀さまの思いが、いつも光となって私に届いております。だから「ああ、そうなんだ」と、真受けしています。

独り暮らしになっても、孤立はしないと思います。このご縁をいただいてお念仏の生活をさせていただいています。

ある雑誌に載っていた川柳

「売る時はあんなに親切だったのに」

詐欺師が獲物の顔に求めるものは、愚かさではなく、孤独な表情だった。

その人を信じている限り私は独りぼっちではないからです。その人の好意に応えなければならないと思い、つい騙された。信じるものを持つことが幸せです。逆に信じるものを持たないことは不幸ですね。

7月より「寺カフェ」とは別に、人生を見つめなおす場として「デスカフェ」=「死生学カフェ」を始めます。死はタブー視されがちだけど、避けては通れません。飲み物を片手に気軽に死を語るイベントです。現在ヨーロッパでは盛んになっています。日本でも若者を中心に広がっています。

どうぞご参加をお待ちしています。

2018.6月

「仏さまのものさしで生きる」 2018.5月

阿弥陀さまの願いにおまかせし、救われていく。
「我にまかせよ。わが名を称えよ。浄土に生まれさせて、仏にならしめん」…十八願

阿弥陀さまの救いを導いて下さったお釈迦さまは、「人生は苦」とおっしゃった。
老の苦、病の苦、死の苦、人間関係の苦、そして欲しいものが手に入らない苦。

その原因が我執です。

自分が正しいという視点で見ている限り、真ん中の大事なことがわからない

まわりの事が見えない社会の中に生きているので、ごまかしながら日々暮らしているうちに、あっという間に人生が終わってしまう。

その大事なものを見失わない為に私は、自己を見つめ、真正面から生き方を問いながら生きています

 

仏教者しての生き方は、縁のある方に寄り添って生きる。

いのちをめぐる苦しみは解決できないと思いますが、割り切れないものをそのまま受け止め、その苦しみと、どう向き合うかを一緒に考えていきます

お釈迦さまも親鸞聖人も、突出して自分を見つめ、生き方を問い続けられた方です。

「少欲知足」をつらぬかれ、「貪ることもなく」、「思いやりの心豊かで、争う事もなく生きられた。おのずから「和顔愛語」となる。断捨離も「少欲知足」の一つかな。

 「少欲知足」・「我執を離れる」・「浄土へ生まれて仏になる」

これは人間の言葉ではなく、仏さまのお言葉です。人間では考えらえません。

 

しかし人間は、「見えないもの」「人間を超えるもの」を信じられるという素晴らしい能力を持っています。

仏さまのものさしで生きるとは、仏さまの目にうつっている自分を知ることにより、仏さまはこういう時はどのようになさるだろうかと、考える支えになります。

具体的には、仏さまのお言葉を疑わずにそのまま受け入れる事です。これが信心です。

「幸せ」という事も例えば「他人が幸せだったら自分も幸せ」「自分の事より他人を優先する」。

私は「我執を離れる」事はできませんが、自覚することはできます。

 

現在私の上で起きている「苦」は受け入れ難いが、お念仏をいただき精進してまいります。

往生は阿弥陀さまが「浄土に生まれさせずにはおかぬ」と言われるから「おまかせします」。

それだけでいいんです。

それで、私たちは往生できるんです。

七十二才 住職

西光寺の新聞『サンガ 第30号』より