沿革

井ノ口村で建てられ、奥殿村へ移転

長親山西光寺は1503年、針崎の 勝鬘寺の門徒であった釋明心を開山として創建されました。長親山という山号は当時の松平5代当主松平長親とのご縁があったと思われますが、詳しいことは分かりません。
1563年、三河の一向一揆が起きます。松平家康(後の徳川家康)に対して一向宗(浄土真宗)の寺院が中心となり一揆を起こしますが、半年ほどで平定されます。三河の国では一向宗は禁止となり、家康の追及を逃れて奥殿村に移転した西光寺は、19年後の1583年、家康により一向宗の活動が許された後に活動を再開し、現在に至ります。奥殿町にある西光寺さんは真宗大谷派です。

再び井ノ口村で


井ノ口村にお寺が再建されたのは享保年間(1716~1735)になります。移転した跡地に近藤安吉が義泉と名乗り、一宇を建て活動を始めます。1855年に長親山西光寺という山号・寺号が認可されます。もともとあったお寺の名前をそのまま付けていたのは、井ノ口村の人にとっては新しいお寺ではなくて、西光寺を再興するという思いがあったからではないでしょうか。

岡崎市の北部に長親山西光寺が3ヵ寺

鴨田町に浄土宗鎮西派の長親山常念院西光寺さんがあります。
1467年の井田野合戦での戦死者を弔うため千人塚が作られますが、9年後の1475年に亡霊が騒ぎ出し、塚がしきりに鳴動し、ときの声が絶えず、近辺に疫病が広がったため、松平親忠は塚の近くに念仏堂を建てて勢誉愚底上人を招き、7日間の別時念仏を修し、亡霊を鎮めます。その後上人を開山として大樹寺が創建され、念仏堂は親忠の子の長親の時代に長親山常念院西光寺となっています。

なぜ井ノ口のお寺に鴨田と同じ長親山西光寺という名前がついたのかは明らかではありません。直線距離で1㎞も離れていないので、本当に近所なんですが、当時の人たちは隣の村だから間違えることがなかったのでしょうか。
当時のことはさておいて、近くに3つも同じ名前のお寺があるので、間違えて別の西光寺さんに訪ねて行かれる方が多いです。西本願寺の西光寺に来られる方は必ず「井ノ口町」の西光寺にお越しください。

三河豊田布教所の開設

豊田市には西本願寺のお寺が少なく、全国各地から故郷を離れて豊田に来られた方が、西本願寺のお寺で仏事を営みたくても出来ずに他宗のお寺にお願いするということがたくさんありました。そのような方々と少しでも仏縁を結べるようにと願い、平成11(1999)年8月1日に開設されました。

浄土真宗本願寺派(西本願寺)西光寺